体力が無さすぎる

 体力が無いと気力や知力も低下する。気力と知力が足りないとぼーっとしている間に飛ぶように時間が過ぎ去る。常に頭に靄がかかっているようでうまく物事が考えられない。生活のために必要最低限の活動でさえできなくなる。なんとか明日生活するために必要な最低の準備を終えるころにはもうとっくに真夜中だ。睡眠時間を確保するために布団に入るがなかなか眠れず煩悶を続けることが毎夜。新しいことをやろうなどとは夢のまた夢だ。

 どうすれば体力がつくのか。最低限の活動をするので手一杯な上には運動は無理だ。食事を増やしても腹を下してしまい、余計に体力を消耗する。休もうにも漠とした不安に頭が覆われ続けていて眠れない。

 ヨドバシカメラに行かなくては。ああ、だが嫌だ。返金を受け取るためには店員と話して手続きを経なければならない。たった一人で。いやだいやだ、そんな面倒なことをするくらいなら数万円など受け取らなくてもいい、と本気で思ってしまう。自分の身の上では数万円は途方もない大金であり、それがあれば生活が楽になるのは間違いないのだが、自分はその安楽の前の苦難にしり込みして動けなくなってしまう。自分の生活の改善は、凡そこのパターンですべて失敗してきた。いや、挑んでさえいないのだから失敗ですらない、失敗未満だ。

実際やってみると思ったより時間がかかることってある

 例えばペインティング。

 ものに色を塗るなんてせいぜい30分ぐらいで終わると思って高をくくっていたらとんでもない。

 まず当然のことながら塗るための絵の具と絵筆が必要になる。それらのものを準備するのにも当たり前だが時間がかかる。お金もかかる。

 さらに絵の具で部屋を汚さないよう準備しなければならない。作業は汚れてもすぐ洗い流せるよう浴室でやるとして、まず不必要に濡らさないよう浴室の水気を拭き取り、塗ったものを置いておくための下紙なども用意しておかなければならない。一言に何かをするとしてもその準備は煩瑣なことの連続で思った以上に時間がかかるものだ。

 服が汚れないよう下着だけになり、風呂場にしゃがみこんで絵筆を走らせ色を塗る。しかしこれが思ったように進まない。色がはみ出る。線がぶれる。重ね塗りしようとしたら絵筆が絵の具を持って行ってしまいかえって薄くなる……などなど。もちろん、器用な人はただ一度筆を滑らせるだけで思った通りに塗装を完了できるのだろうが、おのれの不器用さを忘れて、そうした優れた技量の人を参考にタイムスケジュールを組むとあっという間に破綻をきたす。

 しかも上から別の色を重ね塗りする場合は、最初に塗った絵の具が乾くまで待たないといけない。これも面倒で、例えばプラスチック製品にアクリル絵の具で色を塗った場合なんかは厚塗りしていると乾くまでかなりの時間がかかる。今の季節は湿度が高いのでなおのこと時間がかかる。やむをえずエアコンのドライ機能を使って部屋を除湿して乾燥を促す、と電気代が余計にかかる。

 上から色を塗ってまたそれがはみ出したりするとまたその乾燥を待って最初の色を塗らなければいけない。そして当然、すべての塗った絵の具が乾ききるまでは、ペインティングされたものはみだりに移動させたり扱ったりすることができない。

 このように最初は片手間仕事でできるだろうと高をくくって始めた作業が、実際にやってみたらあにはからんや一日仕事の大作業で、すっかり予定が狂ってしまい、食事の時間や睡眠時間が削られる。こんなことが度々ある。どう考えてもきちんと計画立てて物事を進めるという能力が無さすぎる。もっともギリギリになるまで追い詰められないと何もしない、という悪癖もここに絡んでおり、計画性の見通しのなさからこのギリギリのラインを見誤ると時間は予定より遥かにオーバーして、本来削ってはいけないはずの時間が削られ、そのしわ寄せは自身の健康や社会生活への悪影響となって現れることとなる。

また月曜の朝が来る

 時間が進むのが早すぎる。

 やらなければならないことは山ほどあるのに、何もかも間に合わないまま時間だけがどんどん流れていく。

 きっと人間の一生なんてこうしてあっという間に終わっていくのだろう。

 

 一説によると年を取れば取るほど時間の経過が早く感じられるのは、自分が人生の中で経験した時間の総量が増えているからだそうです。なぜ経験した時間の総量が増えると時間の経過が早く感じられるのか、その理由はわかりません。

 

 個人差はありますが睡眠時間は7時間とるのが健康的には一番いいそうです。私は昔一日十二時間寝ていた時期がありましたが、あれはやはり睡眠障害の類のおかしい状態だったのでしょう。

 

 睡眠の浅きから深きへ、そしてまた浅きへ、のサイクルが約90分だということはよく知られています。故に90分の倍数で睡眠を取れば爽やかに目覚められるはずなのですが、1時間半や3時間や4時間半しか眠らないで起きた場合には死ぬほど辛いです。なんでなんでしょう?

 

 結局、食事やセックス、その他諸々と同じで睡眠にも個人差があり、最大公約数的なものはあっても一概に適用できないというのが実情なのでしょう。自分の身体的特徴の一緒だと思って折り合いをつけて生きていくしかありません。

 

 ああ、眠ると明日の朝が来る。一晩中起きていても来るけれど。

 

 せめて眠りの中で良い夢を見ることができれば、少しは眠ることに楽しみを見出すこともできるのでしょうが、あいにく夢を見ない、もしくは見ても意識に残せない体質らしく、ほとんど夢を見ることはありません。夢を見る頻度はせいぜい一月に一度あるかないかといった程度です。しかも内容を覚えている夢は十中八九悪夢です。悪い夢のほうが記憶に残りやすいのでしょう。良い記憶より悪い記憶のほうが思い出に残りやすいのと同じで、これも体質だと思います。

 

 夢を見る頻度が低い故か、いわゆる夢の中でこれは夢だと気がつく明晰夢を見たことはありません。明晰夢を見ることができれば、そこから自分の夢を思うように変えていって、やがて自在に見たい夢を見ることができるようになると聞きます。本当にせめて夢の中でも思い通りの人生を過ごせるようになればどれだけよいか。しかし明晰夢を見る。さらに言えば夢を見るというのも一つの才能なのではないでしょうか。ポリネシアのとある部族では明晰夢を見る修行がおこなわれているといいますが、そのコロニーでは夢を見ることができる遺伝子といったものが伝えられてきたのかもしれません。

ようやく一つの作業が終わった…

 長らく記事を書かず申し訳ありません。

 頼まれたある企画にかかりきりになっていました。

 人として男として、決してないがしろにできない頼みであり、差し迫った状況だったので、ただでさえ乏しいリソースをそちらにつぎ込むけっかとなってしまいました。すいません。

 久しぶりにやったら、記事のレイアウトがまったくわからず、そこで何日間も止まってしまいました。なんとかやり終えた今になってもまだあれで正しかったのかわかりません。

 とにかく、今日からは溜まっていたこちらの分を更新します。今はとりあえず少し寝て、それから非正規に行ってきます。

仮面ライダーの妖奇とエロス ~怪異!蜂女~ その①

 仮面ライダー。1971年に放送が開始した初代「仮面ライダー」から2018年現在放送中の最新作「仮面ライダービルド」まで、47年の歴史の中でテレビシリーズは29作を数え、合計の放送話数は1300話を越える、まさに日本を代表するヒーロー番組の一つである。

 仮面ライダーシリーズの人気を支えた柱の一つとして挙げられるのが、毎週仮面ライダーと対決する怪人の存在だろう。恐ろしくも個性的な怪人の姿は、仮面ライダーの雄姿と並んで視聴者を熱狂させてきた。登場怪人の中からは一度見たら忘れられないショッカー幹部の死神博士地獄大使(共に仮面ライダー)、強力な好敵手としてのアポロガイスト仮面ライダーX)、シャドームーン(仮面ライダーBLACK)といったライダーに匹敵するほどの人気を誇る「名怪人」も誕生している。

 そんなライダー怪人の歴史の中、一際妖しく美しく、人々を魅了する悪の華がある。

 ショッカー怪人・蜂女である。

 

 蜂女は初代仮面ライダーの第8話「怪異!蜂女」(1971年5月22日放送 監督:北村秀敏 脚本:滝沢真里)に登場するショッカーの改造人間であり、毒ガス工場で働く奴隷を集めるために催眠装置の付いた眼鏡をばらまき、かけた人々を操って拉致していた。

 長い仮面ライダーシリーズの歴史においてはごく初期に登場する1話限りの敵怪人だが、その独特の魅力から今も根強い人気を誇っている。

 

蜂女の魅力① 顔の造形

 何より特徴的なのはその頭部である。顔の上半分、鼻より上は蜂をモチーフとした改造人間らしく昆虫の複眼と触覚が備わっている。だが顔の下半分、口元より下はメイクで青く塗られただけで、人間の顔がむき出しになっているのである。

 他のショッカー怪人、蜘蛛男やコウモリ男、サソリ男などが頭部全体をマスクで覆っている中で、顔の下半分が人間のままというデザインになっているのは蜂女だけである。この意匠はライダー怪人中でも珍しく、この後登場する怪人には声が女性である怪人、女性が改造された怪人、人間に化けた時の姿が女性である怪人はいても、怪人体になった時には改造されすぎて性別の判断がつかなくなっているものがほとんどなのだ。

 しかし蜂女は目元をマスクで覆うだけで、口元は露わにしている。目元を非人間的なパーツで隠すが、唇の部分は妖艶な色を塗ったのみで人間のままで露出させている。ここに倒錯的な美が生まれる。

 フロイトの口唇期を引くまでもなく、唇はセクシャルなイメージと密接に結びついている。その他の部分を隠されることにより、唇の持つエロスはより一層イメージとして引き出されることになる。

 また仮面で隠された顔の上部からも、隠されるが故のエロスが醸し出されている。人はあえて隠されているものに興味を惹かれ、想像を刺激される。露出と隠秘、二つのエロスが相乗効果を発揮して、蜂女の妖美な輝きを高めているのである。

≪続く≫

まず致命的な欠陥として

 文章を書いたことのない人間はいきなりブログを渡されて「毎日誰かに読ませるつもりで内容を更新しろ」と言われても何も書けないということです。

 まずは短文でも意味不明でもとにかく何か書かせる訓練から始めないと、ものを書くという行為自体をろくにしことのない人間(Twitter2ちゃんねる等の投稿はまた別物)は何も出来ないのではないでしょうか。

 先ほどTwitterやネット上の掲示板の話題を出しましたが、これらに頻繁に書き込んでいたとしてもイコール文章を書けるということには当然ならないと思います。それらに投稿される文章は総じて短文であることが多く、また他人に読まれるということ、読者の存在を想定していないものがほとんどであると思われます。そもそもの目的として、それらネット上の匿名コミュニティーに文章を投下するのは他人に読んでもらうためではなく、自分の感情を吐き出したいからという面が大きい。文字通りの書き捨てです。うまくすれば同好の士が返信を返してくるのではないか、程度のスケベ心はあるかもしれませんが。

 もちろん私はこのブログ、この機会を投げ出すつもりはありません。私の人生はすでに崖っぷち、どころかすでに崖から落下して激突の瞬間を待つだけの段階です。差し伸べられた手は絶対に離しませんし離せません。犍陀多がお釈迦様の手を振り払うことなどありえましょうか。今の自分にできることは、とにかく何かを書くことです。まず何らかの文章を書き続けることです。

 しかし思い返してみれば、なんと空虚な人生を送ってきたことでしょう。いざ何事かを書こうと思いブログの画面に向き合っても、何一つ書くことが出て来ないのです。この世に生を受けてから一万日をとうに越え、三十路を過ぎても自分で立つどころか自分が何を考え何を記したいのかすらわからない有様です。なんてみっともない人生なのか。

 ただただ無駄に浪費されただけの日々。何も積み上げてこなかった人間の生涯。私の半分も生きていない中学生、下手をすれば小学生ですらも私より豊富な人生経験を持っている可能性さえあります。人生経験とは経過した時間の長さではありませんし、何をどれだけやったか、という事ともまた違う。一つの経験から何を得たかということです。たとえ世界一周旅行をしても、その同中夢も見ずにずっと眠っていたのでは何の意味もないのです。

 もうすぐ一千字です。長い。あまりにも長い。しかし、書くのをやめることは闇に射した一条の光の前で自分の目を潰すと同じことです。精一杯努めます。どうか私を見捨てないでください。拝。